封印していた気功療法(気功術)

 

 私が気功術(外気功)を会得したのは、自分が気功の道場を開いたと同時であった。習っている間は、気功の先生からは「今生では無理だろう」と言われていた。しかし、能力とは不思議なものです。皮肉にも自分の道場を開いて最初の講習会で会得したのだ。一般人の言葉を使うと奇跡を導く発想だったのでしょう。そのことを言葉に直せる表現は世の中には存在していない。だが、それから起きることは確信していた。その基となった思考は、一つの意識でした。私は気功を行う目的を究極の責任感から導き出していました。そのことが、誰に教わることなく気功術のベースを知り得たのです。

 

 自分が生徒を持って「気功」を教えるからには、外気功くらい出来ないわけにはいかないと心底感じたと同時に、外気功が出来るという確信が湧き上がったのでした。とても不思議な感覚。実際に外気功を見せる場面では何の躊躇もなく、生徒の前に立つ自分は、まさに外気功師としてのベテランの姿でした。虚勢でも背伸びでもなくベテランの余裕があったのだ。多分こういう場合は「神が自分にのりうつり、指導されたのだ」とでも言った方が、むしろ信憑性が高いのではないだろうか。実は、ここから先がさらに大変であった。

 必要な時に必要なメカニズムが浮かび上がる経験の連続に入ったのだ。はっきり言って自分がそこまで「頭が良い」はずは絶対にないことくらいは分かる。その後の経験は、まるでジグソーパズルのように問題の一チップを開いただけで、絵のすべてが分かるように問題の構造が解かれていった。

 

 その能力は、今現在も続いている。

するとどうであろう、自分は出来ても生徒に教える方法がないのだ。正直なところ、普通の外気功であれば一月ほどで教えることが可能だろうし、手技療法のスペシャリストであれば数日で教えることも可能になるかもしれない。

だが、一旦その上の世界を知ってしまうと教えることにも欲が出て来たのだ。「このレベルの気功術を教えたい」と。

 

 私の気功への取り組みは、生徒の精神レベル向上に主体が移った。私が発見した気の世界は、主要素が人の精神構造にあった。つまり、気功を使う側の心が、「気の質」というものを作り出していたことを知った。気功の質を作る心は、普通の考えの延長にはない。やはり、特別ともいうべき「善意の質」とでも表現した方が近いかもしれない。単なるイメージを主体に自然界の気を利用するのではなく、気功家本人が気功を必要とする目的と、その目的に沿う気の質が求められる。いくら自然界の気を気功により引き出そうとしても、気功家本人のアンテナというか「意識の目的に対するキャパシティー」が、最終決定をする。

この「意識の目的に対するキャパシティー」をいかに磨くかがとても難しいのである。

 伝統的な技術の伝承では、この領域の気功術の習得は不可能です。大切なのは、技術的な伝承より心を確信的に磨くことの方がはるかに重要です。気功術に必要なものは、むしろ特別なものではありません。特別といえば特別に高貴な人間性でしょう。高貴な人間性と表現するのが一番近い言葉での表現方法になります。ここが理解出来れば、究極の気功術の習得は夢ではありません。なぜなら、究極的な責任感を持って良い人間性を習得するだけでいいからです。この事実をもって、まさに神様の仕事に間違いはないと言えるのです。どんな難解な問題でも、この心を持って立ち向かえば必ず適切な答えは導き出されます。

 

 

 

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